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2025年の記事

きんりん

ショーマッカー

長い間、美味しいパンといえばフランスのパンだった。住んでいたパリの五階の部屋から通りに出て、十メートル先の角を曲がり二件目のところにパン屋があった。螺旋階段の乗降を含めて約七分。薬缶の底にびっしりこびりついてしまう石灰のせいで味が締まるのだと言われたネスカフェと買いたてのバゲットが朝食だった。秋冬には窓の外で冷やしているバターを塗った。その繰り返しに飽きることはなかった。 それから数十年を経た六年前、ベルリンから半日の列車の旅に出た日、駅のキオスクで在住の友人が昼食用にパンを買ってくれた。「ドイツのパンって、こんなに美味しいんですか」と驚く私に、彼女は「知りませんでした? 負けていないでしょ」と笑った。帰りには車内用に、バンベルクの街角のスーパーでボトルワインとソーセージ、そしてパンを買い込んだ。三点セットはどれも申し分なく、その一日で仏独のパンは私の中で並び立ったのだ。 ![ショーマッカー](/images/posts/schomaker/DSC4279.jpg) 学芸大学駅周辺にはパン屋が多い。最近では「高級」を名乗る食パンの店まで増えているけれど、ドイツパンの専門店はまだない。 ところで私たちは、気に入った写真を未だに紙焼きにしている。ある日、DPE屋の女主人が尋ねた。「パンはいつもどこで買っているの」と。子育て時の大量購入以来、我が家のパンの優先順位は価格であり、味のこだわりも原材料へのチエックもおろそかだった。 「クロワッサンはね、そこの路地の店が一番。それから、ちょっと離れているけれど大岡山にドイツパンの専門店があるの。私はたまに自転車で買いにいくけれど、わざわざの甲斐がある味よ」という学芸大駅原住の方のご意見に従ってみることにした。大岡山は私たちの自宅からは徒歩で三十分ほどなので、散歩をかねての探訪に。目当てのドイツパンの店「ショーマッカー」は大岡山駅から放射状に延びる数本の商店街の一つにある。店舗の軒に掛けられたプレッツェルを模った鉄製の看板は美味しそうで、つい手を伸ばして摘まんでみたくなる。棚は正面の窓と片側だけで品数が多くないのは、おかずパンや菓子パンの類を置いていないためだろう。 初日はドイツ産ライ麦五十パーセント、国産小麦五十パーセントの表示があるベルリーナラントと、イチジク、クランベリー、クルミを練りこんだライ麦パンのオプストを選んだ。 ドイツのライ麦パンは見かけ通り持ち重りがする。目が詰まっているので噛み応えがあり、噛むほどに香りが立つ。塗るのではなく食べるというドイツスタイルで、たっぷりのバターを載せるのもよい。そしてさらにビールにも合う。このひと噛みで、散歩コースがひとつ増えた。 自宅からショーマッカーへの道にはいくつか桜並木があるので、花と落ち葉の季節はとりわけ楽しい。目黒通りを越えてすぐの田向公園からの歩道と、碑さくら通りと名付けられたバス通り沿いだ。そして何より、大岡山駅前から広がる東京工業大学の桜は見応えがある。ショーマッカーでプレッツェルを一口大に砕いてガーリックをまぶして焼き上げたツヴィーバックを求め、缶ビールを仕入れての花見が贅沢。 ![ショーマッカー](/images/posts/schomaker/DSC4256_3.jpg) 専攻が農獣医学部だった店主の清水信孝さんは食品関連、とりわけパンに惹かれていたのだという。学生時代のアルバイトはもっぱらパン屋だったし、卒業後の就職先もドイツ菓子「ユー・ハイム」である。ドイツ系を謳うお菓子とパンの店にいたとき、来店するドイツの人たちがあまりパンを買っていかないのに気づいた。彼らが故郷を懐かしむ味ではないのだろう。本場の味は現地で身につける他はないという強い思いに磁力が働く。ドイツでパン職人として清水さんを受け入れてくれたのは、マイスターの称号をもつショーマッカーの二代目だった。北西部を中心に数店舗の直営店と高級スーパーの棚にも入るパン工場で働けることになったのだ。十数名で日に五千個程を焼くという力技だから、「食」用の美というべきか。異国人でもなく見習いでもない一人の職人として働き、製造マシンのようにひたすらパンをつくり続けたことこそが、かけがえのない経験となった。水と粉の量、力の加減、温度の読み取りなどは教えることも学ぶこともできないからだ。 「五百日の修了書はこの手の裡にありますよ」、清水さんは誇らしげに大きな掌を開いた。 ![ショーマッカー](/images/posts/schomaker/DSC4196.jpg) 清水さんは、ドイツのパン工場での一年半の修業を終え、二〇〇六年、「ショーマッカー」からのれんを分けられた。ドイツの店名ロゴに冠された「ビオ(BIO)・ベッカライ」とは有機のパン屋という意味だという。「ドイツパン以外はつくらない、牛乳、卵、砂糖を使用しない、ドイツへ行く際、焼いたパンを持参して本店のチエックを受ける」ビオを目指す東京店の誕生である。 大岡山に店舗をもったのは、母親の実家が近くだったし、自分も学生時代に住んでいたので、土地の雰囲気には親近感があったからだ。ドイツシューレのスクールバスが通るくらいドイツ人も多い。ドイツ大使館やドイツ料理店が顧客になったのも早かった。 亀戸から買いに来たという男性が話してくれた。十歳の頃、父親の仕事で二年程ドイツに暮らしていたので、ずっと彼の地の味が恋しかった。数年前、はじめて訪れた大岡山で「ベッカライ」の名を発見し、以来熱烈なファンとなったそうである。 パン屋にとって地の利以上に肝心なのがパン種、清水さんが使う酵母はドイツから持ち帰ったサワー種である。温度管理が難しく、繊細で気難しい酵母とは目と鼻で対話する。一日三回の種継ぎも欠かせないルーティンだ。パン屋の朝は早く四時頃から作業をはじめ、五十キロ近くの麦を捏ね、十時くらいまで焼き続ける。二十五種類程のパンを三百個、週末には四百個ほどになる。レジの背後にある工房は決して広くはない。オーブンは大型だが、作業台はコックピットと云えるほど小ぶりで、半身を捻じるだけで手順を進められる。捏ねて成型して焼き上げる一連の動きは見飽きることがない。オーブンから焼きあがったパンのバットが取り出され、どっと台に広げられると、熱気と香りが強く立ち昇る。珈琲店や花店や茶舗等の香りは気分を豊かにしてくれるが、中でも焼き立てのパンの匂いは格別だ。 売切れごめんで、店じまいは商店街の中でも早いほうだ。清水さんは取りおいてあったパンをリュックに詰め、店のトレードマークでもあるオレンジ色の自転車に跨る。明日の朝も早い。

きんりん

花すけ

遠い花の記憶は月見草だ。 祖父母が一時期住んでいた郊外の小さな家。夕方、薄暗い廊下の突き当りにある小さな台所の窓が一面黄色に染まる。その黄色の花帯が見たくて、祖母の料理の手伝いをした気がする。夏休みの終わり頃の親と離れてのお泊り、祖父母のひっそりとした暮らしぶりと相まって、黄色い花の群生は、わたしにとって一抹の寂しさを纏う絵になって心に刻まれている。 ![花](/images/posts/hanasuke/DSC3858.jpg) 気に入って長い間書棚に置いている写真がある。一九七〇年代に東京表参道で撮影したもので、家人の後ろに止められていた車のちょっととぼけたデザインも懐かしい。モノクロームだけれど色は鮮明に思い出せる。着ているワンピースはレモンイエロー、そして手にしている小さな花束は黄色のフリージアだ。自ずと遠い記憶の花の色を、彼女は選んだのだろうか。花屋で買い物をしたのはその日で二度目だった。初回は新宿紀伊國屋近くでスイトピーを買った。スイトピーもフリージアもそれまで名を知らなかったのだ。 私が育ったのは、彼岸の仏花と正月の飾り花くらいという、花を飾る習慣のない家だった。子どもの頃見た駅周辺の店のいくつか、パン屋、練り物屋、金物屋、焼き芋屋、糸屋、レコード屋、万年筆屋等はけっこう細部まで思い出せるのだが、花屋の覚えがまったくない。 二年半住んだ花の都のアパート近くには花屋があり、花市場も歩いて十分程だった。 彼の地でも花屋には縁遠かったが、「生花」という言葉がぴったりの花々が溢れ零れるウィンドウでは足を緩めることもあった。花を買ったのは二度の五月一日の鈴蘭の小束と大きなリラの花だけだ。しかし各国を旅した際の街角での写真を見直すと、家人が花を持っていることが多い。花持つ人といえば、ウフッツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」の前で大振りの白百合を肩に担ぐ女性に遭遇した。当時はボッティチェリの前も空いていて、その光景自体がルネサンス絵画をなしていた。 パリでも一昨年初めて訪れたモスクワでも、花束を抱える男性をよく見かけた。恋人か家族かあるいは自分のコーナーのためにか、皆一様に笑みをたたえていて、誰もが足早だった。 今は月に二度くらいは花を求めるのだが、近隣ではここでという行きつけの店がなかった。友人に薦められて隣駅にも行ってみたけれど期待は外れた。一番の問題は花持ちである。学芸大学にも持ちの良い店があるとはいえ、私たちには文字通り高(値)の花だ。周辺で買いくる度に、「また早々と萎れたね」という嘆息を繰り返すばかりだった。 「花すけ」を紹介されたのは、二〇一九年秋まで、学芸大学駅前にあった喫茶店「あんぐいゆ」(「きんりん」2号)だった。カウンター席の端でコーヒーを飲んでいた男性に、ママの良江さんが「この間の花、まだこんなに元気よ」とガラス器に挿してある花に触れたのだった。「まだ元気なのよ」の一言に耳が立った。カウンター越しに、良江さんのスマホで件の花屋さんのインスタグラムを見せてもらった。 たまに散歩で巡る林試の森公園に近い目黒通り沿いに、その人、高橋健治郎さんのお店があるという。日を置かず、「花すけ」を訪ねた。間口はとても狭い。店内には色が溢れていた。店の空間全体でひとつのグラン・ブーケである。後に、高橋さんが小中校時代、美術部に属していたと聞いた。色には音がある。花棚には無音の交響が満ちていて、背後の目黒通りを走る車の音はすっかり遠のいていた。 まさに、「みつけたぞ」であった。 ![花すけ](/images/posts/hanasuke/DSC3839.jpg) 高橋さんのお祖母さんは戦後すぐに、駄菓子屋さんをはじめている。曾祖父が目黒区油面の地蔵通りに開いていた郵便局のあとが店舗となった。その後、近所の花屋さんがいきなり消えてしまったのを機に花屋に転じたのだ。目黒通りから地蔵通り商店街に入ってすぐにあった銭湯の並びになる。「花すけ」の前身、「吉永生花店」の誕生であった。吉永は高橋さんの母方の姓である。 商店街の出口近くで今も営業している大塚湯とともに、戦後しばらくは通りに二軒の風呂屋があったという。銭湯帰りに花を求める人は少なくなかったと、高橋さんから伺う。湯上りに花とは、花を飾らず内湯だった私には初めて知る話だ。 郵便局は閉じてもポストは元のまま家の前にあり、その陰からたびたび店内を伺う男がいた。祖父母には三人の娘があり、女中心の所帯で皆いささか不安に感じていたところ、ある日、意を決したように店に入ってきた男が名乗りを上げ、住み込みで働かせてもらえまいかと頼んだのだ。男はリヤカーによる花の引き売りで、品川あたりから一帯の銭湯を目当てに遠征してきていたのだった。後年、高橋さんの父となる人である。生花店の長女が高橋さんの母となった。ドラマのようである。 ![花すけ](/images/posts/hanasuke/scan3.jpg) 油面地蔵通りにあった「吉永生花店」(昭和40年代) 高橋さんは小学生のころから配達の手伝いをしていた。毎月一日と十五日は神棚に榊を備える習慣がまだ色濃くあったので、晦日と十四日は定期便だった。小遣いを貰えることもあり面倒だとは感じなかったそうだ。時節や行事によって食事の間もないくらい忙しい時があっても、客との応対を見聞きし、人入りが途絶えると茶の間で横になってテレビを眺める様子は実にのどかで、気楽とまでは考えないが、いずれは自分もと漠然と見通していた。姉の後を追うかたちで、世田谷区深沢にある都立園芸高校に進んだ。園芸科と造園科があり、花を知るには最適である。専門学校なのに、姉のほうははなから花屋になる積りはなかったが。既定路線で、「先ずは外の飯を喰ってこい」と母に言われ卒業後の就職先は花屋であった。第一・第二希望の花店からは弾かれた。花屋の師弟は慣れたところで実家を継ぐために辞めてしまうからだという。入店したのは池袋のデパートに入る花屋だった。高橋さんの他にも福岡の花店からの女性がいた。社員約二十名は旧態の徹底した上下関係に組み込まれ、当初は花にも満足に触れない下働きの日々。アレンジメント等の技術は、手を取ってではなく見て盗めであった。生け花は通いの師匠からの出げいこで型を伝授された。 勤務した五年半はバブル期で花もよく売れた。デパートは贈答用が主流なので高額に輪をかけた。場所柄毎月末にはキャバクラの密集する辻に花満載の軽トラックを止めて花束をつくる。客たちが人気ホステスさんに捧げるためと店内装飾で、これがバンバン売れたのだという。総じて楽しい年月だったけれど、一九九三年に父が倒れた。なんとか店には復帰し父母で日々をこなしていたが花屋は重労働である。両親を手伝うため高橋さんは退職を決め、それから七年半、地蔵通りの店に立った。池袋のデパートと目黒油面では仕入れる花がまったく異なる。お客も大半は顔見知りだ。東横線都立大学駅の近くにあった花市場は一九八九年に統合され現在の大田市場に移転していて、規模が大きくなっている。両親のスタイルをなぞりつつ、花選びにはデパートの経験を活かした。 ![花すけ](/images/posts/hanasuke/DSC3915.jpg) 二〇〇〇年、故あって店と土地が人手に渡る。年表に記された一行の出来事のように、高橋さんは淡々と話したけれど、激震の日々であったろう。もちろん本意ではないけれど、苦い言葉はすべて呑み込んだのだ。事情を知る元の職場に否やはなく、再び池袋で約十五年にわたって勤めを続けた。そして友からの心強い声掛けもあり、店舗の再生を目指すことになる。元の場所に近い目黒通り沿いに空き店舗があり、裏手に駐車場も確保できた。新店舗は、亡くなった父の名「助治」から一字をもらい、「花すけ」とした。オープンは二〇一六年二月十四日だったから、五年目に入ったところだ。 『花屋になりたくなかった花屋です』という本があったけれど、高橋さんは花屋に生まれ、まっすぐに花屋になったのだ。過去を謙虚に背負い、強く今を肯定する。大きな笑顔と声、まさに向日葵のごとくである。 花も世につれで、数年前から多肉植物が流行り始め、ドライフラワーも人気だ。花の種類も色も多様化しているし、花市場に来る人たちにも変化が出ている。ネット販売の専門も増えつつある。「デザイナーズ系」の店内は一見アンティークショップかと見紛うくすんだ色合いと商品レイアウトだ。 花すけの周辺はマンションと昔からの一軒家が入り混じる地帯で購買層は幅広い。そして目黒通りは十五年位前からインテリア通りと呼ばれるほど、インテリアショップや骨董家具店が増えたこともあって、週末は客の顔ぶれも変わるのである。ご両親のように、町の花屋さんでありたいとの言葉通り、花すけは誰もが気後れせずに覗ける店を体現しつつ、「新進のフラワーデザイナーさんたちがどんな花を仕入れるのか、一応横目でチェックしていますよ」と屈託がない。 淡い色が囁くように伸びるスイトピー、野趣に富んだコスモスを好きになったのは、十代の長い入院の頃からだろうか。病室は見舞いの花で溢れるが、夜になると全ての病室から看護士さんが花瓶を廊下に出すのだ。夜の廊下は色とりどりの花の行列。それは華やかさとは裏腹の寂しい時間だった。退院して家で療養するわたしの枕元には、父が種から鉢で育てたコスモスやスイトピーがあった。だから、万歳をしたいくらい嬉しく驚いたのは、高橋さんに「好きな花はコスモスとスイトピー」と漏らしたときの、「僕もそうです」の一言だった。自分の好きな花はつい多めに仕入れてしまうという花すけの花棚に一目惚れしてしまったのにも訳があったのだ。気に入りの花屋さんのことを「店にいるだけで気持ちが満たされる」と書いていた方があったけれど、わたしも同じである。 そして私たちが一番気にかけた花持ちだが、高橋さんによれば、花持ちは花の良し悪しや新鮮さだけではなく、気温に大いに左右されるから仕入は週間天気予報も気に掛けるのだという。「水あげと毎日の水替えを欠かさないことに尽きますよ」とおっしゃるが、町の花屋がその仕事を怠るとは思えないので、花持ちで抜きんでる花すけの生花は目利きに選ばれているからに違いない。花を選ぶというより、花に選ばれているのだろう。花に選ばれた店主の手から選ばれた花が、私たちの空間でひとときを生きる。 ![花すけ](/images/posts/hanasuke/DSC3802.jpg) 二〇一九年七月七日。私を除いた七人の三家族合同の、三ヶ月をまたいだ誕生日と慶賀を併せての会を開いたとき、七つの花束を高橋さんにお願いした(特に意図したわけではなかったが七並びになった)。うまく日程があって、市場での花選びから始めてもらえた。面白く不思議だったのは、七つの小束を一まとめに抱えもつと、セブンピースがワンピースとなって輝いて見えることだった。 後日、皆が感激したことを伝えると、「買ってくださる方はもちろん、贈られた人にも喜んでもらえてこそ」と破顔した。そして二〇二〇年の私の誕生日には、その中の二人から、花すけで選んできたという花をもらった。二種の黄色の花、ミモザとフリージアだった。 その翌々月の三月、店の外置きの棚で粒立ちの見事な黄色の花を見つけた。ブルターニュのカルナック巨石群の足元にも群生していた花、エニシダである。仏名はジュネ。英仏百年戦争の一方の雄、プタンタジネット家が紋章にしたと云われる花だ。ラテン語のプランタ・ゲニスタ(planta genista・エニシダの枝)の家紋が家名になったのである。石塊に這い広がる花は荒々しさに満ちていたが、棚の黄花は匂い優しい。このエニシダもまた、花すけ好みだろうか。 二〇二〇年の三月は花屋さんにとって残酷な月になってしまった。卒業式、歓送迎会が集中する三月は一年のなかで生花店がもっとも多忙なとき、すなわち大いなる稼ぎ時である。例の笑顔はかすれ気味で、声も心なしかトーンが落ちている。「市場も活気がなくて」と。 それでも、五月のある日、店の中に二人連れが一組いて、私たちは外で待つ。そして今度は、私たちが小さな黄バラを買って店を出ると、新しい方が会釈をして入っていった。立ち去る私たちの背後から、高橋さんの明るい声が聞こえた。 「きんりん」Vol.10 2020年7月10日 発行 制作   :[エクリ](https://e-ecrit.com) ロゴ   :伊藤弘二 写真   :大野貴之 レイアウト:須山悠里 文責   :須山実・須山佐喜世(エクリ)

きんりん

流浪堂

「いい古書店のある街がいい街だとおもう」(『感受性の領分』)という詩人長田弘の言葉から、わが街の話をはじめよう。 東横線学芸大学駅近くに、私は生まれたときから住み続けている。人気の沿線とされているが、とりたてて個性はないのだ。東京のどの町でも目にする数多のチェーン店のけたたましい看板が駅周辺に溢れている。にもかかわらず、それでもなお、この街が家人と私にとって、いい街だと思えるのは、「いい古書店」を筆頭に「いい時間」を共にできる場所と人に恵まれているからだ。 「きんりん(近隣)住人」である。学芸大学駅を中心にすれば、前後二駅、半径四キロほどの範囲。ちょっと踏み出す場合も出てくるが、このとりとめなく広がっている東京で稀有な環境である。極私的なフィルターとはいえ、裏道漁りはしない。すべてが日々、年々歳々の付き合いの中にある近隣の人たち。 ## 学芸大学駅と本屋 私は編集と出版を生業としてきたけれど、小中学校の頃は読書と無縁で、学校図書室も地域の図書館も利用した覚えがない。一九六〇年前後の学芸大学駅周辺には新刊書店が三軒あった。毎月自転車配達されてくる「小学*年生」は現在一軒だけある恭文堂からだった。古書店の存在はまだ見えていなかった。 脇目も振らずの受験勉強をしたわけではないが、行く先の高校が決まった三月からいきなり本を読みはじめた。小学校はマンガと「少年探偵団」のみで過ごし、中学校はクラスメートとくるくると遊び呆けていて、読書の下地ゼロだったから、本に飛びついたきっかけは不明だ。 高校生活は友達付き合いが薄く、本仲間もいなかったから、本選びは専ら読み終えた作品が次の指針となった。都度、書店で新刊を購入していたと思う。大学付属高校だったので、所属した運動部の練習は大学生と合同のこともあり、夏休みになると大学キャンパスのある高田馬場に通った。神田と並ぶ古書店の街である。足繁く覗きまわるのは先のことになるが、部活帰りに手に入れた一冊は今でも手放さずにある。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0174.jpg) その頃、学芸大学駅にあった古書店は現在創業六十年を超える「飯島書店」と、駅前の第一ストア内にあった「ミネルバ書房」の二軒だった。大学生になってからは、この二軒で売買両面のお世話になった。村田書店という店も三谷通り付近にあったらしいが、私には記憶がない。 大学卒業後に入校した映像専門学校で、ついに本の師に会った。真の本読みは悪魔のような誘惑者だ。話される何もかもを手に取らずにはいられない。専門学校は一年半ほどで中退してしまったが、師のお宅に押しかけては映画ではなく本の話ばかりをしていた。未知の作家、敬遠していた書名が連なった。 「手放すのが辛い本しか値が付かない」と、師が本を売る話をされたことを結婚後に実感した。「ダブル・インカム・ノーキッズ(double income no kids)」と夫婦共働きで子供なしが優雅な生活の謳い文句となった時代、私たちは「プア・インカム・スリーキッズ(poor income three kids)」という状況だった。公共料金の支払いも危い月があって、二十年以上読み続けて保存していた漫画雑誌「ガロ」を手放すことにした。引き取り手は学芸大学駅で三軒目の古書店「伊藤書店」。本格派で古書店の王道を行くという品揃えの店で、主人の風貌もどっしりと寡黙。主人は無言で紐掛けし手早く運び出していった。 ## 学芸大学駅の古書店「流浪堂」 学芸大学駅四件目の古書店、流浪堂の開店は二〇〇〇年四月。開店早々の古書店に入るのは、ここが最初だったかもしれない。三十代前半と思われる二人の男性が交互に店番をしていた。共同経営なのか、主人と社員なのかは分からなかった。 今は若い世代が担い手となって各地で次々と新しい書店、古書店ができはじめているが、若くして店を開く方が出てきたのが二十年程前からだったろう。古書店は昔からその場所にあるという思い込みが私にはあった。店奥に控える店主も、相応に歳ふりているものだと。もちろん、そんなことはない。年は積み重なっていく。学芸大学の先行三軒の主人たちも皆、たまたま私が見知ったときすでに中高年であっただけのことである。 ![流浪堂 本棚](/images/posts/ruroudou/DSC0273.jpg) わたしたちの自宅事務所が入るマンションの出口から古書店流浪堂まで、家人の足でも三六〇歩。たった三六〇歩進むだけで、いい街の源に立つのだ。離れみたいなものである。 開店当初の流浪堂の棚は、本の熱帯雨林とも称すべき今の様子とはずいぶんと違っていたけれど、遠からず呼び寄せられてくるだろう本の気配が立ち込めていた。 初めの数年は、私は店の二人とほとんど言葉を交わしていない。聴こえているCDのタイトルを尋ねたくらいだろうか。私たちエクリが出版をはじめた二〇〇六年の翌年くらいに、「ご近所」を理由に古書店での新刊本の扱いをお願いし、気持ちよく引き受けてくださった。このときようやく、店主が二見彰さんであることを知った。 その後、たっぷりと時間をかけながらも、エクリの本を随分売ってもらっている。ものによっては大型新刊書店よりも回転が良い。流浪堂に対しては「棚の編集」などという、しゃらくさい言葉を使うべきではない。「感」と「勘」が書棚の本を自由に泳がせている。 頻繁に流浪堂に通っても飽きないのは、本が絶えず動くからだ。動いているように感じられるからだ。「ソラリス」の海のように。仔細に眺めれば、数ヵ月同じ棚に鎮座する本が当然ながら多々あるのだけれど、埋もれているのではなさそうに見える。 ## 音を紡ぐように本を重ね、客とのセッションを楽しむ 雑誌などで書店、古書店の特集が組まれるとき登場する店はとても限られている。紹介するに足る店が少ない業種なのだろう。流浪堂も常連店になっている。そのなかでも秀逸だと思われるのが二〇一三年六月十五日号の「BRUTUS」の特集「古本屋好き。」だ。「この店主がいるから行きたくなる。」という括りの頁で見開きの片頁。お隣には今はなき大阪の「青空書房」で、この時点でご主人は九十歳超え。TVで「若い女性に優しい店主」と言われていた通り、私が訪れた日もお若い方と実ににこやかに話されていた。この見開きを飾る二人の店主の表情がとても素敵だ。「風格が違いますよ」と二見さんは言うが、いやいや。記事のトップの一文も二見さんの姿勢を端的に言い当てている。「音を紡ぐように本を重ね、客とのセッションを楽しむ。」 バンドを組んでドラムを叩いていた、かつてのロッカー二見さんは今でも、小さなイベントでアフリカ起源の太鼓ジャンベを奏する。実に淡々と叩いている。“blood sweat & tears”(ブラッド・スウェット・&ティアーズ)というロック・グループがあったけれど、その名の対極にいるのが二見さんだ。音の流れと本の並びが響きあう二見コード。「常に棚の本に触って、微妙な配置を楽しんでいます」と奥様の祥子さんが言う。神経質ではまったくなく、繊細さとも異なる、「おのずから」の手なのだろう。ある人は「フタミ・マジック」という。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0295.jpg) 抜けた本のあとに挿し込まれる本が新たなバランスをつくり、その場に馴染む様子は、本自身が喜んでそこへ走っていったみたいだ。たくさんの本が出て行った週末後のニューバランスに至るプロセスを追って、二見さんの回遊ぶりを動画にしてみたいものである。 書棚とともに流浪堂を特徴づけているのが、お客さんの幅の広さだ。子ども連れ、カップル、友人同士、そして単身と、年齢も入店の形も多彩だ。滞在時間もそれぞれで、根を生やす方も少なくない。 二〇一二年、社員だった木村氏が独立して逗子に古書店をオープンさせてからは、二見彰さん、祥子さん夫妻がそれぞれに、あるいは並んで奥の院に控えている。そもそも勘定台に夫婦並び立つ図は珍しいので、コクピット状の隙間で相対すると話が弾むというお客さんも多いようだ。エクリの本が捌けているのも、お二人による相乗誘導力に負っているに違いない。 このレジ横には「大人の小部屋」と呼ばれた十八禁専門のコーナーがあったのだが、この二〇一二年を境に各種展示スペース「トーチカ」に様変わりした。今にしてみれば、旧コーナーに足を踏み入れておけばよかったと無念に思う。どのような棚づくりで十八禁を置いていたのだろうか。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0273-1.jpg) 新装なったコーナーでエクリもこれまで何度か展示をさせていただいているし、この冊子「きんりん」の写真を撮っていただく大野貴之さん、ロゴをつくってくださった伊藤弘二さんも個展を開いた。今後、「きんりん」で紹介していく予定の幾人かも作品を置いている。 展示発表される作品は絵画、写真、オブジェと多岐にわたっている。毎回楽しみなのが、二見さんがその場に添える選書だ。関連図書ではないし、セッション、合いの手とも異なる。小部屋でも古本屋さんの広やかで起伏に富んだ掌で遊ばせてもらうことになるのだ。展示の告知は店頭のガラス窓の前に小さなチラシが貼られているだけのことが多い。展示も書棚も一続きで、どちらも呼ばれたと感じる人だけに開かれているのかもしれない。 他の方々による店の印象を知りたいと思い、流浪堂を一語あるいは、ワンフレーズで言えば、との問いを出してみた。 「混沌の秩序」「noisy」「耕」「弾き語り」「傍」「旅」「どこでもドア」「灯」 「耕」の一字を出された方は、二見さんの「毎日棚を耕しているんだ」という言葉からだとおっしゃった。またある方は、駄洒落に大いなる愛をこめて「二見ご夫妻が常に息吹を与えている流浪堂さんの書棚は、その姓にちなむがごとく一見を経て、二見目には変化が生じているのです。常に静かに動いていて、少し時間を置いたり、同じルートを逆に歩いたりすると、まるで別の世界が見えてきます」と書いてきてくださった。これらの言葉の中に二見さんご自身が出した語も入っている。 「長く店をやってきたことで、生まれた思いです」と。 それにしても命名はいつでも興味深い。改めて「流浪」の出自を二見さんに尋ねてみた。すると、「小さい頃からちんどん屋さんとかサーカスが好きだったんですよ。サーカスはどこからともなく湧き出て、不意にぺたんと消えてしまう。ちんどん屋さんは遠い音から遠い音となって、うねうねと水の流れみたいに過ぎていく」との答え。ロックバンド時代、仲間とイギリスやフランスを流していた日々への郷愁もあるのだろうか。 当初の看板には「古本遊戯 流浪堂」とあって、「漕ぎ出すぞ」という若者の気概かと思われたが、「流浪堂」だけだと何を扱う店か分からないだろうと、「古本」を入れたのだという。日々耕された棚からは古本群が自由気ままに増殖し続けている。 [流浪堂](https://www.facebook.com/ruroudou/) 目黒区鷹番3-6-9-103 (木曜定休) 「きんりん」Vol.1 2018年3月21日 発行 制作:[エクリ](https://e-ecrit.com) 写真:大野貴之 ロゴ:伊藤弘二 レイアウト:[須山悠里](https://suyama-d.com)

コラム

ラストサムライ (2/3)

奇跡的に生還したサムライ、デンパチローは酒とともに無為に生きたらしい。生活のため下駄屋を始めた曾祖母に「サムライが履物など扱えるか」と言い続けたという。しかし元サムライの妻の商法は成功したようだ。 デンパチローに忘備録の類はないが、子だけは生した。そのひとり、わが祖父は次男である。サムライの身分は消滅したとはいえ、祖父の幼少年時代は「サムライの子は云々」という規矩はことあるごとに示されていたのではなかろうか。痩せても枯れても呑んだくれであっても、死中に活を得てしまったサムライの一言なり一分なりの口伝があって欲しかったが、奇跡はデンパチローに重すぎたのかもしれない。唯の人は運命に謝することもなく、ただ生き延びたわけだ。知る限り、祖父にサムライの血と教えが色濃く伝わったとは思えない。 旧来の仕来り通り、家督は長男となり、祖父は学問を授けられた。帝大出の官吏となったが、よほど問題があったのだろう。出世には縁遠かった。自らを「神経過敏」と称していた。書棚には漱石と吉川英治があったけれど、読書する姿を見たことはない。いつも時間をかけて新聞二紙に目を通していた。手帳に書き物をしていたが、不覚にも、祖父の死後残しておくことをしなかった。この祖父のぼくにたいするしつけは竹の物指で手の甲を叩くことだった。自分が泣き虫だったことはよく覚えているが「男は泣くものじゃない」とは言われなかった気がする。 風邪をひいて寝込んだある日、押入れにあるはずの短刀を出してくれと、祖父はしきりに母に頼んだという。埃がたつから風邪がなおってから探しましょうと答えたその翌日、彼は亡くなった。死出の守り刀にしたかったのだと、遅ればせに気づいたが、棺の上には果物ナイフが代用で置かれた。いざというとき切腹もできないと、残った者たちは無情なことを言った。唯一、サムライらしき話ではある。 祖父には早世した子が一人いたそうだが、長じたのは三人。男二人、女一人の三人の子どもの二十歳のころの写真はお互いそっくりである。十九になる前結核で亡くなったという伯母の顔は父が女装したかと思うくらいだ。デンパチローの顔の骨格が伝わるのはこの三人までで、ぼくの頭蓋骨は別系統の血を受けた。父は一卵性双生児だったから、男二人の顔は見分けがたく、空手の型を演じる稽古着姿の青年の写真をぼくは父と見誤った。それは慶応大学で空手部の主将を務めたという伯父であった。伯父は学徒動員で海軍に召集され対空砲士官として空母「雲竜」に乗り、船は航行中米軍の機雷に触れ轟沈したという。三千人の乗員の大半が亡くなり、伯父もその中にいた。少しずつ薄まっていくサムライ・デンパチローの血はどちらかといえば、この伯父に多く伝わっていたような気がしてくる。 早稲田に進んだわが父は肋膜が幸いして軍隊行きを免れた。父は戦後になって何度か「戦死したと聞いたが生きていたのか」と町で声をかけられたそうだ。 出撃前に一時帰省した伯父は父に「日本は必ず負ける。兄貴は身体が弱いのだから絶対に軍隊に取られるな」と繰り返したという。声なき声などというものはない。一人ひとりの声があるのだ。なけなしの艦船を集めた最後の連合艦隊兵士ならずとも、昭和19年ともなれば、多くの者たちがしのびよる敗北を予感していただろう。そうでないのは、強い祖国と大人の言葉を信じたい軍国少年だけだった。 デンパチローの曾孫たるぼくが遊学を終え、就職のため面会した出版社の社長はぼくの名と顔を見て絶句した。彼は慶応大学の空手部で伯父の後輩だったという。おまけに海軍に入り、カッター訓練用に配られた合羽には伯父の名前があった。 「なんということだろう。君が双子のお兄さんの子どもというわけか。君の伯父さんの突きは鋭かったよ」と言った。「わだつみの会」の理事の一人だったこの社長に請われて、父の手元にあった伯父の手紙が会報に掲載された。投函せずに手渡された手紙だったのだろう、そこにも「日本必敗」の文字があった。

コラム

ラストサムライ (1/3)

数十年ぶりに脚光を浴びることとなったジョージ・オーウェルに呼ばれて、あの人のことを思い出した。 センバ・デンパチロー・タダマサ。 曽祖父の名だ。子供の頃住んだ洋間の壁に、紋付袴二本差しのデンパチローの写真が掛けられていた。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。写真機に向かって斜めに腰掛けた彼は、いささかやんちゃな感じの口を引き結んでいる。首には白い布が巻かれていた。伊予松山藩士だったデンパチローは西南戦争に従軍し、西郷軍の銃弾が喉を貫通したのだと祖父から聞かされた。 「弾丸が首を貫通したと知って、すぐに私はもう駄目だと観念した。人間でも動物でも弾丸が首の真ん中を通り抜けてなお生き残るなどという話は、一度も聞いたことがなかった・・・・・・自分が死ぬと思ったのは、およそ二分間くらいだったに違いない。そしてそれがまた面白い――そんな時に人間の考えることがどんなものであるか、それを知ることが興味深いという意味である」と書いたのはジョージ・オーウェルである。義勇軍兵士としてスペイン内戦に参加した彼は、塹壕でファシストの狙撃兵に撃たれたのだ。 オーウェルのルポルタージュ『カタロニア讃歌』でこの文を目にしたときはじめて、ぼくはヒイジイサンが拾った命を思い、辛うじて落とされずに自分まで手渡されたバトンの重さに気づかされた。小学生のころはたぶん、「うちはサムライの家系だったんだ」と男の子らしく鼻ふくらませただけだったろう。 「それは午前5時、胸壁の角でだった。その時間がいつも危なかった。というのは、われわれの後ろ側から夜が明けるので、胸壁の上に首を突き出すと、空にはっきりと輪郭が浮び出るからだ」 オーウェルが撃たれたときの状況である。彼は「弾丸にあたった経験は総じて大変興味深いので、詳細に述べておく価値があると思う」として記録を残した。 デンパチローはといえば、彼は若年にして目録を受けていたというから、戦の場では極めてリアリストであったはずで、ガトリング砲に向けて駆け馳せていくサムライではなかったろう。優れた剣客たる要諦は進退を知ることに尽きる。死に際は見事にと期してはいても、徒に死に花咲かせようとは考えなかったにちがいない。それにしても、わが国最後の内戦での経験を彼は誰かに伝えようとしたことがあったのだろうか。 日常的に死があり、錯綜した党派間の確執の中にありながら、オマージュのタイトルにふさわしく『カタロニア讃歌』全編を貫いているのは人間への信頼であり、スペインに対する深い想いである。「にもかかわらず信じる」という眼差しに裏打ちされた文は緻密で潔い。人間の尊厳という精神が息づいている。 ある日、敵の塹壕深く攻め入っていたオーウェルの眼前を慌てた敵兵が走っていった。男は服を着終わっておらず、ズボンをおさえながら血相を変えて駆けていく兵士をオーウェルは狙撃しない。「ぼくはそこへ”ファシスト”を撃ちに来ていた。しかし、ズボンをおさえている男は”ファシスト”ではない」というわけである。 この話は『チボー家の人々』に書かれたエピソードを思い起こさせる。第一次大戦のいつ果てるとも知れず続く独仏の塹壕戦のさなか、夜のパトロールに出たフランス兵士の主人公は道端で眠りこけるドイツ軍兵士を見かける。しかし、フランス人たちは敵兵が目を覚まさないよう、そっと立ち去るのだ。 ロジェ・マルタン・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』はかつて町の本屋さんでいつでも見かけた。白水社版の「黄色い本」はわが家にも、結婚前の家人のところにもあった。40年以上前のことだから、読書事情は大いに変わる。『チボー家の人々』を読む女学生が主人公の、高野文子のコミック『黄色い本』はじつに素敵な話で、ぼくも幾人かにプレゼントしたが、『1984年』のごとく書店で復活するまでには至らなかった。 今また書店の平台に並んだオーウェルの『1984年』は絶望的な苦さに満ちた本だ。これほど、気の滅入る本は以降読んだ記憶がないほどで、1972年に文庫版で読んだ後、無明の帝国を「体験」させられた痛覚がずいぶん長く尾を引いた。一望監視システムの下で人間はなすすべもなく立ち尽くす卑小な存在であることをいやおうなく突きつけられたのだ。 クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やアブラーゼの映画「懺悔」など、粛清、密告、相互不信渦巻くスターリニズムの世界や全体主義の恐怖を描いた錘の深い優れた作品は少なくないけれど、心身を直接抉られることはない。 逃げ場のない閉塞空間は江戸期の一寒村にも、毛沢東がにらみをきかせる成安にも、1986年の都内の中学校にもあった。過去未来を問わず存在し続けるだろう。そのなかにあって、人のこころは壊れる。最愛の人も裏切る。人の暗部に目を縛り付ける近未来小説は途方もなく苦かったのだ。 同じ作家の手になる『カタロニア讃歌』と『1984年』とでは、まったく相反するネガポジの印象がある。「裏切られた革命」とはいえ、スペイン市民戦争は鮮烈な生命力を感じさせ、怒りもまた光り輝いていたように思える。「人民戦線」そのものにロマンティックな響きがあったのかもしれない。なにしろ、『誰がために鐘は鳴る』があり三人のパブロがいて、虐殺されたロルカの名があったのだ。 オーウェルには格好の水先案内人がいる。山田稔のエッセイ「わがオーウェル」(特別な一日―読書漫録)は「細部の観察」にこだわり、なぜ書くかいかに書くかを真摯に問い続けたオーウェルの文の品位(decency)と魅力へのオマージュで、オーウェルへの確かな手引書である。 引用される文は背後に潜む無尽蔵の大鉱脈を暗示する一粒の原石だ。時代の醸す勢いで読んでいたところもある『カタロニア讃歌』を改めて再読したくなるし、取り上げられている「象を撃つ」や「絞首刑」などのエッセイにも手を伸ばしたくなる。

日々雑記

数十年

東京都現代美術館の岡崎乾二郎展へ。 最初期の型紙からつくられた立体作品に、我が街「たかばん」の名がついていた。 これまで印刷物で見てきたアクリル素材使用の絵とオリジナルとの違いの大きさに、当たり前とは言え驚かされる。妖しいまでの色の輝き、画布からの素材の吹き上がり。アクリルは平面性の強い画材だと思い込んでいたこともあろう。粘着性の強い色が暴れているのだが、会場空間には軽やかな光が流れている。 以前、「ねこかしら」という岡崎の絵本で描かれた、ゆるいドローイングの踊りに見入ったことがあったけれど、作家の内包する世界は測り知れない。 展示室の最後は、作家が脳梗塞で倒れた後からの粘り強いリハビリの過程で創り出した造形物である。作家の裡から這い出て、呻きうねりを閉じ込めたまま、ひと時ここで固まっているという不気味な印象がある。いつの日か、再び動き出すのか、溶け消えるのか。この「造形物」もポスター等で使われているが、作品を前にすると、「生命体」があるという印象を拭えない。 型紙から名づけ得ぬ塊へ、一人の作家の数十年に渡る変貌流転を見せられたのだ。 終了日の前日の入場になってしまったが、家人と「来てよかったね」と言いつつ清澄白河駅への帰り道、鰻と焼き鳥を焼いている店に捕まってしまった。持ち帰りの鰻が焼き上がるのを待つ間、焼き鳥を頬張る。帰宅後にワインをあけるので、コップ酒は我慢した。