きんりん

流浪堂

「いい古書店のある街がいい街だとおもう」(『感受性の領分』)という詩人長田弘の言葉から、わが街の話をはじめよう。 東横線学芸大学駅近くに、私は生まれたときから住み続けている。人気の沿線とされているが、とりたてて個性はないのだ。東京のどの町でも目にする数多のチェーン店のけたたましい看板が駅周辺に溢れている。にもかかわらず、それでもなお、この街が家人と私にとって、いい街だと思えるのは、「いい古書店」を筆頭に「いい時間」を共にできる場所と人に恵まれているからだ。 「きんりん(近隣)住人」である。学芸大学駅を中心にすれば、前後二駅、半径四キロほどの範囲。ちょっと踏み出す場合も出てくるが、このとりとめなく広がっている東京で稀有な環境である。極私的なフィルターとはいえ、裏道漁りはしない。すべてが日々、年々歳々の付き合いの中にある近隣の人たち。 ## 学芸大学駅と本屋 私は編集と出版を生業としてきたけれど、小中学校の頃は読書と無縁で、学校図書室も地域の図書館も利用した覚えがない。一九六〇年前後の学芸大学駅周辺には新刊書店が三軒あった。毎月自転車配達されてくる「小学*年生」は現在一軒だけある恭文堂からだった。古書店の存在はまだ見えていなかった。 脇目も振らずの受験勉強をしたわけではないが、行く先の高校が決まった三月からいきなり本を読みはじめた。小学校はマンガと「少年探偵団」のみで過ごし、中学校はクラスメートとくるくると遊び呆けていて、読書の下地ゼロだったから、本に飛びついたきっかけは不明だ。 高校生活は友達付き合いが薄く、本仲間もいなかったから、本選びは専ら読み終えた作品が次の指針となった。都度、書店で新刊を購入していたと思う。大学付属高校だったので、所属した運動部の練習は大学生と合同のこともあり、夏休みになると大学キャンパスのある高田馬場に通った。神田と並ぶ古書店の街である。足繁く覗きまわるのは先のことになるが、部活帰りに手に入れた一冊は今でも手放さずにある。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0174.jpg) その頃、学芸大学駅にあった古書店は現在創業六十年を超える「飯島書店」と、駅前の第一ストア内にあった「ミネルバ書房」の二軒だった。大学生になってからは、この二軒で売買両面のお世話になった。村田書店という店も三谷通り付近にあったらしいが、私には記憶がない。 大学卒業後に入校した映像専門学校で、ついに本の師に会った。真の本読みは悪魔のような誘惑者だ。話される何もかもを手に取らずにはいられない。専門学校は一年半ほどで中退してしまったが、師のお宅に押しかけては映画ではなく本の話ばかりをしていた。未知の作家、敬遠していた書名が連なった。 「手放すのが辛い本しか値が付かない」と、師が本を売る話をされたことを結婚後に実感した。「ダブル・インカム・ノーキッズ(double income no kids)」と夫婦共働きで子供なしが優雅な生活の謳い文句となった時代、私たちは「プア・インカム・スリーキッズ(poor income three kids)」という状況だった。公共料金の支払いも危い月があって、二十年以上読み続けて保存していた漫画雑誌「ガロ」を手放すことにした。引き取り手は学芸大学駅で三軒目の古書店「伊藤書店」。本格派で古書店の王道を行くという品揃えの店で、主人の風貌もどっしりと寡黙。主人は無言で紐掛けし手早く運び出していった。 ## 学芸大学駅の古書店「流浪堂」 学芸大学駅四件目の古書店、流浪堂の開店は二〇〇〇年四月。開店早々の古書店に入るのは、ここが最初だったかもしれない。三十代前半と思われる二人の男性が交互に店番をしていた。共同経営なのか、主人と社員なのかは分からなかった。 今は若い世代が担い手となって各地で次々と新しい書店、古書店ができはじめているが、若くして店を開く方が出てきたのが二十年程前からだったろう。古書店は昔からその場所にあるという思い込みが私にはあった。店奥に控える店主も、相応に歳ふりているものだと。もちろん、そんなことはない。年は積み重なっていく。学芸大学の先行三軒の主人たちも皆、たまたま私が見知ったときすでに中高年であっただけのことである。 ![流浪堂 本棚](/images/posts/ruroudou/DSC0273.jpg) わたしたちの自宅事務所が入るマンションの出口から古書店流浪堂まで、家人の足でも三六〇歩。たった三六〇歩進むだけで、いい街の源に立つのだ。離れみたいなものである。 開店当初の流浪堂の棚は、本の熱帯雨林とも称すべき今の様子とはずいぶんと違っていたけれど、遠からず呼び寄せられてくるだろう本の気配が立ち込めていた。 初めの数年は、私は店の二人とほとんど言葉を交わしていない。聴こえているCDのタイトルを尋ねたくらいだろうか。私たちエクリが出版をはじめた二〇〇六年の翌年くらいに、「ご近所」を理由に古書店での新刊本の扱いをお願いし、気持ちよく引き受けてくださった。このときようやく、店主が二見彰さんであることを知った。 その後、たっぷりと時間をかけながらも、エクリの本を随分売ってもらっている。ものによっては大型新刊書店よりも回転が良い。流浪堂に対しては「棚の編集」などという、しゃらくさい言葉を使うべきではない。「感」と「勘」が書棚の本を自由に泳がせている。 頻繁に流浪堂に通っても飽きないのは、本が絶えず動くからだ。動いているように感じられるからだ。「ソラリス」の海のように。仔細に眺めれば、数ヵ月同じ棚に鎮座する本が当然ながら多々あるのだけれど、埋もれているのではなさそうに見える。 ## 音を紡ぐように本を重ね、客とのセッションを楽しむ 雑誌などで書店、古書店の特集が組まれるとき登場する店はとても限られている。紹介するに足る店が少ない業種なのだろう。流浪堂も常連店になっている。そのなかでも秀逸だと思われるのが二〇一三年六月十五日号の「BRUTUS」の特集「古本屋好き。」だ。「この店主がいるから行きたくなる。」という括りの頁で見開きの片頁。お隣には今はなき大阪の「青空書房」で、この時点でご主人は九十歳超え。TVで「若い女性に優しい店主」と言われていた通り、私が訪れた日もお若い方と実ににこやかに話されていた。この見開きを飾る二人の店主の表情がとても素敵だ。「風格が違いますよ」と二見さんは言うが、いやいや。記事のトップの一文も二見さんの姿勢を端的に言い当てている。「音を紡ぐように本を重ね、客とのセッションを楽しむ。」 バンドを組んでドラムを叩いていた、かつてのロッカー二見さんは今でも、小さなイベントでアフリカ起源の太鼓ジャンベを奏する。実に淡々と叩いている。“blood sweat & tears”(ブラッド・スウェット・&ティアーズ)というロック・グループがあったけれど、その名の対極にいるのが二見さんだ。音の流れと本の並びが響きあう二見コード。「常に棚の本に触って、微妙な配置を楽しんでいます」と奥様の祥子さんが言う。神経質ではまったくなく、繊細さとも異なる、「おのずから」の手なのだろう。ある人は「フタミ・マジック」という。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0295.jpg) 抜けた本のあとに挿し込まれる本が新たなバランスをつくり、その場に馴染む様子は、本自身が喜んでそこへ走っていったみたいだ。たくさんの本が出て行った週末後のニューバランスに至るプロセスを追って、二見さんの回遊ぶりを動画にしてみたいものである。 書棚とともに流浪堂を特徴づけているのが、お客さんの幅の広さだ。子ども連れ、カップル、友人同士、そして単身と、年齢も入店の形も多彩だ。滞在時間もそれぞれで、根を生やす方も少なくない。 二〇一二年、社員だった木村氏が独立して逗子に古書店をオープンさせてからは、二見彰さん、祥子さん夫妻がそれぞれに、あるいは並んで奥の院に控えている。そもそも勘定台に夫婦並び立つ図は珍しいので、コクピット状の隙間で相対すると話が弾むというお客さんも多いようだ。エクリの本が捌けているのも、お二人による相乗誘導力に負っているに違いない。 このレジ横には「大人の小部屋」と呼ばれた十八禁専門のコーナーがあったのだが、この二〇一二年を境に各種展示スペース「トーチカ」に様変わりした。今にしてみれば、旧コーナーに足を踏み入れておけばよかったと無念に思う。どのような棚づくりで十八禁を置いていたのだろうか。 ![流浪堂](/images/posts/ruroudou/DSC0273-1.jpg) 新装なったコーナーでエクリもこれまで何度か展示をさせていただいているし、この冊子「きんりん」の写真を撮っていただく大野貴之さん、ロゴをつくってくださった伊藤弘二さんも個展を開いた。今後、「きんりん」で紹介していく予定の幾人かも作品を置いている。 展示発表される作品は絵画、写真、オブジェと多岐にわたっている。毎回楽しみなのが、二見さんがその場に添える選書だ。関連図書ではないし、セッション、合いの手とも異なる。小部屋でも古本屋さんの広やかで起伏に富んだ掌で遊ばせてもらうことになるのだ。展示の告知は店頭のガラス窓の前に小さなチラシが貼られているだけのことが多い。展示も書棚も一続きで、どちらも呼ばれたと感じる人だけに開かれているのかもしれない。 他の方々による店の印象を知りたいと思い、流浪堂を一語あるいは、ワンフレーズで言えば、との問いを出してみた。 「混沌の秩序」「noisy」「耕」「弾き語り」「傍」「旅」「どこでもドア」「灯」 「耕」の一字を出された方は、二見さんの「毎日棚を耕しているんだ」という言葉からだとおっしゃった。またある方は、駄洒落に大いなる愛をこめて「二見ご夫妻が常に息吹を与えている流浪堂さんの書棚は、その姓にちなむがごとく一見を経て、二見目には変化が生じているのです。常に静かに動いていて、少し時間を置いたり、同じルートを逆に歩いたりすると、まるで別の世界が見えてきます」と書いてきてくださった。これらの言葉の中に二見さんご自身が出した語も入っている。 「長く店をやってきたことで、生まれた思いです」と。 それにしても命名はいつでも興味深い。改めて「流浪」の出自を二見さんに尋ねてみた。すると、「小さい頃からちんどん屋さんとかサーカスが好きだったんですよ。サーカスはどこからともなく湧き出て、不意にぺたんと消えてしまう。ちんどん屋さんは遠い音から遠い音となって、うねうねと水の流れみたいに過ぎていく」との答え。ロックバンド時代、仲間とイギリスやフランスを流していた日々への郷愁もあるのだろうか。 当初の看板には「古本遊戯 流浪堂」とあって、「漕ぎ出すぞ」という若者の気概かと思われたが、「流浪堂」だけだと何を扱う店か分からないだろうと、「古本」を入れたのだという。日々耕された棚からは古本群が自由気ままに増殖し続けている。 [流浪堂](https://www.facebook.com/ruroudou/) 目黒区鷹番3-6-9-103 (木曜定休) 「きんりん」Vol.1 2018年3月21日 発行 制作:[エクリ](https://e-ecrit.com) 写真:大野貴之 ロゴ:伊藤弘二 レイアウト:[須山悠里](https://suyama-d.com)

コラム

ラストサムライ (2/3)

奇跡的に生還したサムライ、デンパチローは酒とともに無為に生きたらしい。生活のため下駄屋を始めた曾祖母に「サムライが履物など扱えるか」と言い続けたという。しかし元サムライの妻の商法は成功したようだ。 デンパチローに忘備録の類はないが、子だけは生した。そのひとり、わが祖父は次男である。サムライの身分は消滅したとはいえ、祖父の幼少年時代は「サムライの子は云々」という規矩はことあるごとに示されていたのではなかろうか。痩せても枯れても呑んだくれであっても、死中に活を得てしまったサムライの一言なり一分なりの口伝があって欲しかったが、奇跡はデンパチローに重すぎたのかもしれない。唯の人は運命に謝することもなく、ただ生き延びたわけだ。知る限り、祖父にサムライの血と教えが色濃く伝わったとは思えない。 旧来の仕来り通り、家督は長男となり、祖父は学問を授けられた。帝大出の官吏となったが、よほど問題があったのだろう。出世には縁遠かった。自らを「神経過敏」と称していた。書棚には漱石と吉川英治があったけれど、読書する姿を見たことはない。いつも時間をかけて新聞二紙に目を通していた。手帳に書き物をしていたが、不覚にも、祖父の死後残しておくことをしなかった。この祖父のぼくにたいするしつけは竹の物指で手の甲を叩くことだった。自分が泣き虫だったことはよく覚えているが「男は泣くものじゃない」とは言われなかった気がする。 風邪をひいて寝込んだある日、押入れにあるはずの短刀を出してくれと、祖父はしきりに母に頼んだという。埃がたつから風邪がなおってから探しましょうと答えたその翌日、彼は亡くなった。死出の守り刀にしたかったのだと、遅ればせに気づいたが、棺の上には果物ナイフが代用で置かれた。いざというとき切腹もできないと、残った者たちは無情なことを言った。唯一、サムライらしき話ではある。 祖父には早世した子が一人いたそうだが、長じたのは三人。男二人、女一人の三人の子どもの二十歳のころの写真はお互いそっくりである。十九になる前結核で亡くなったという伯母の顔は父が女装したかと思うくらいだ。デンパチローの顔の骨格が伝わるのはこの三人までで、ぼくの頭蓋骨は別系統の血を受けた。父は一卵性双生児だったから、男二人の顔は見分けがたく、空手の型を演じる稽古着姿の青年の写真をぼくは父と見誤った。それは慶応大学で空手部の主将を務めたという伯父であった。伯父は学徒動員で海軍に召集され対空砲士官として空母「雲竜」に乗り、船は航行中米軍の機雷に触れ轟沈したという。三千人の乗員の大半が亡くなり、伯父もその中にいた。少しずつ薄まっていくサムライ・デンパチローの血はどちらかといえば、この伯父に多く伝わっていたような気がしてくる。 早稲田に進んだわが父は肋膜が幸いして軍隊行きを免れた。父は戦後になって何度か「戦死したと聞いたが生きていたのか」と町で声をかけられたそうだ。 出撃前に一時帰省した伯父は父に「日本は必ず負ける。兄貴は身体が弱いのだから絶対に軍隊に取られるな」と繰り返したという。声なき声などというものはない。一人ひとりの声があるのだ。なけなしの艦船を集めた最後の連合艦隊兵士ならずとも、昭和19年ともなれば、多くの者たちがしのびよる敗北を予感していただろう。そうでないのは、強い祖国と大人の言葉を信じたい軍国少年だけだった。 デンパチローの曾孫たるぼくが遊学を終え、就職のため面会した出版社の社長はぼくの名と顔を見て絶句した。彼は慶応大学の空手部で伯父の後輩だったという。おまけに海軍に入り、カッター訓練用に配られた合羽には伯父の名前があった。 「なんということだろう。君が双子のお兄さんの子どもというわけか。君の伯父さんの突きは鋭かったよ」と言った。「わだつみの会」の理事の一人だったこの社長に請われて、父の手元にあった伯父の手紙が会報に掲載された。投函せずに手渡された手紙だったのだろう、そこにも「日本必敗」の文字があった。

コラム

ラストサムライ (1/3)

数十年ぶりに脚光を浴びることとなったジョージ・オーウェルに呼ばれて、あの人のことを思い出した。 センバ・デンパチロー・タダマサ。 曽祖父の名だ。子供の頃住んだ洋間の壁に、紋付袴二本差しのデンパチローの写真が掛けられていた。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。写真機に向かって斜めに腰掛けた彼は、いささかやんちゃな感じの口を引き結んでいる。首には白い布が巻かれていた。伊予松山藩士だったデンパチローは西南戦争に従軍し、西郷軍の銃弾が喉を貫通したのだと祖父から聞かされた。 「弾丸が首を貫通したと知って、すぐに私はもう駄目だと観念した。人間でも動物でも弾丸が首の真ん中を通り抜けてなお生き残るなどという話は、一度も聞いたことがなかった・・・・・・自分が死ぬと思ったのは、およそ二分間くらいだったに違いない。そしてそれがまた面白い――そんな時に人間の考えることがどんなものであるか、それを知ることが興味深いという意味である」と書いたのはジョージ・オーウェルである。義勇軍兵士としてスペイン内戦に参加した彼は、塹壕でファシストの狙撃兵に撃たれたのだ。 オーウェルのルポルタージュ『カタロニア讃歌』でこの文を目にしたときはじめて、ぼくはヒイジイサンが拾った命を思い、辛うじて落とされずに自分まで手渡されたバトンの重さに気づかされた。小学生のころはたぶん、「うちはサムライの家系だったんだ」と男の子らしく鼻ふくらませただけだったろう。 「それは午前5時、胸壁の角でだった。その時間がいつも危なかった。というのは、われわれの後ろ側から夜が明けるので、胸壁の上に首を突き出すと、空にはっきりと輪郭が浮び出るからだ」 オーウェルが撃たれたときの状況である。彼は「弾丸にあたった経験は総じて大変興味深いので、詳細に述べておく価値があると思う」として記録を残した。 デンパチローはといえば、彼は若年にして目録を受けていたというから、戦の場では極めてリアリストであったはずで、ガトリング砲に向けて駆け馳せていくサムライではなかったろう。優れた剣客たる要諦は進退を知ることに尽きる。死に際は見事にと期してはいても、徒に死に花咲かせようとは考えなかったにちがいない。それにしても、わが国最後の内戦での経験を彼は誰かに伝えようとしたことがあったのだろうか。 日常的に死があり、錯綜した党派間の確執の中にありながら、オマージュのタイトルにふさわしく『カタロニア讃歌』全編を貫いているのは人間への信頼であり、スペインに対する深い想いである。「にもかかわらず信じる」という眼差しに裏打ちされた文は緻密で潔い。人間の尊厳という精神が息づいている。 ある日、敵の塹壕深く攻め入っていたオーウェルの眼前を慌てた敵兵が走っていった。男は服を着終わっておらず、ズボンをおさえながら血相を変えて駆けていく兵士をオーウェルは狙撃しない。「ぼくはそこへ”ファシスト”を撃ちに来ていた。しかし、ズボンをおさえている男は”ファシスト”ではない」というわけである。 この話は『チボー家の人々』に書かれたエピソードを思い起こさせる。第一次大戦のいつ果てるとも知れず続く独仏の塹壕戦のさなか、夜のパトロールに出たフランス兵士の主人公は道端で眠りこけるドイツ軍兵士を見かける。しかし、フランス人たちは敵兵が目を覚まさないよう、そっと立ち去るのだ。 ロジェ・マルタン・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』はかつて町の本屋さんでいつでも見かけた。白水社版の「黄色い本」はわが家にも、結婚前の家人のところにもあった。40年以上前のことだから、読書事情は大いに変わる。『チボー家の人々』を読む女学生が主人公の、高野文子のコミック『黄色い本』はじつに素敵な話で、ぼくも幾人かにプレゼントしたが、『1984年』のごとく書店で復活するまでには至らなかった。 今また書店の平台に並んだオーウェルの『1984年』は絶望的な苦さに満ちた本だ。これほど、気の滅入る本は以降読んだ記憶がないほどで、1972年に文庫版で読んだ後、無明の帝国を「体験」させられた痛覚がずいぶん長く尾を引いた。一望監視システムの下で人間はなすすべもなく立ち尽くす卑小な存在であることをいやおうなく突きつけられたのだ。 クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やアブラーゼの映画「懺悔」など、粛清、密告、相互不信渦巻くスターリニズムの世界や全体主義の恐怖を描いた錘の深い優れた作品は少なくないけれど、心身を直接抉られることはない。 逃げ場のない閉塞空間は江戸期の一寒村にも、毛沢東がにらみをきかせる成安にも、1986年の都内の中学校にもあった。過去未来を問わず存在し続けるだろう。そのなかにあって、人のこころは壊れる。最愛の人も裏切る。人の暗部に目を縛り付ける近未来小説は途方もなく苦かったのだ。 同じ作家の手になる『カタロニア讃歌』と『1984年』とでは、まったく相反するネガポジの印象がある。「裏切られた革命」とはいえ、スペイン市民戦争は鮮烈な生命力を感じさせ、怒りもまた光り輝いていたように思える。「人民戦線」そのものにロマンティックな響きがあったのかもしれない。なにしろ、『誰がために鐘は鳴る』があり三人のパブロがいて、虐殺されたロルカの名があったのだ。 オーウェルには格好の水先案内人がいる。山田稔のエッセイ「わがオーウェル」(特別な一日―読書漫録)は「細部の観察」にこだわり、なぜ書くかいかに書くかを真摯に問い続けたオーウェルの文の品位(decency)と魅力へのオマージュで、オーウェルへの確かな手引書である。 引用される文は背後に潜む無尽蔵の大鉱脈を暗示する一粒の原石だ。時代の醸す勢いで読んでいたところもある『カタロニア讃歌』を改めて再読したくなるし、取り上げられている「象を撃つ」や「絞首刑」などのエッセイにも手を伸ばしたくなる。