木のぼり男爵

イタロ・カルヴィーノ 米川良夫 白水社

イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』米川良夫訳(白水社)。木の絵のカバー

私は学芸大学の生まれで都会っ子の端くれですが、昔の家で庭に木はそこそこ生えていたので、木登りは結構好きでした。木登りの本といえば、代表はカルヴィーノの『木のぼり男爵』です。舞台はイタリア。主人公のコジモという少年が、料理に出されたカタツムリを食べるのが嫌で、絶対に食べないと言い張る。男爵家なので大きな領地に住んでいて、窓辺にその家の大きな木が迫っている。そこに飛び移って以来、死ぬまで木の上で生活し続ける男の話です。ファンタジーに分類されたりもしますが、描き方はものすごくリアルで、最後の最後まで文体が貫かれています。

コジモが木に登った十二歳のときは1767年と設定されていたと思います。1770年にマリー・アントワネットがルイ十六世と結婚しますから、フランス革命直前のヨーロッパです。イタリアはまだ統一国家ができておらず、ルネッサンス以来の各自治体が支配していた頃です。領地はオンブローザという名前で、行ってみたいと思う人が多いらしく、イタリアのどの辺にあるのかと調べる人がたくさんいる。私も調べてみましたが、実は架空の場所です。読んでいると背景になった館や木を見てみたくなるのですが、架空の町ですよ、と。オンブルはフランス語で影ですから、たぶん木陰という意味が含まれていて、木登り男爵の舞台になっているのだと思います。

最後は結婚もします。相手は蓮っ葉な公爵令嬢だったでしょうか、そこそこの家の出で、やはり風変わりなお嬢さんなので、二人で木の上で生活する。とても気が合うのですが、途中で彼女がどうしても木から降りなければならなくなり、一緒に降りてと誘っても彼は拒否する。彼女は泣く泣く木から降りてしまい、その後は波乱万丈があって、別の男と結婚して海外に行く。出て行ってからの話がとても悲しくて、私の好きなところです。——ナポレオンとの戦争の長い年月の間、ロンドンの霧の中でオンブローザの木々を夢見ていた。それから東インド会社に関係のある貴族と再婚してカルカッタに住み着いた。自分の庭のテラスから彼女は森林を、少女時代の庭の木よりももっと奇妙な木立を眺めていた。そして時折その葉の茂みをかき分けて、コジモが姿を現すように思えるのだった。だがそれは猿かジャガーの影だった。——猿かジャガーの影だった、というところがとても悲しい。絵として「ああ、猿だったのか」と思わせるところが悲しいのです。

晩年、木の下を軍隊が通りかかってやり取りをします。ナポレオン軍を追ってきたロシア軍で、当時のロシアの将官はフランス語が喋れますから、『戦争と平和』のアンドレイたちと同じようにフランス語でのやり取りになる。どこから来たのかと話すのですが、なぜかその将官の名前がアンドレイ侯爵なのです。もちろん『戦争と平和』のアンドレイはイタリアなど来ていませんから、たぶんふざけてそういう名前にしている。壮大なファンタジーで、読み直したくなる小説です。

木林文庫チャンネル「木の上の物語(前編)」

この本と結びついている本

木に登る王スティーヴン・ミルハウザー

『木のぼり男爵』が木の上で一生を過ごす男爵の話なら、『木に登る王』は嫉妬に駆られて林檎の木に登る王の話。館長は「今のは男爵の話でしたが、今度は王様です」と続けて紹介した。