「木が動く」そのままのタイトルがついた童話が『あるきだした小さな木』(ボルクマン作/セリグ絵)。「自由と束縛と独立」と「訳者あとがき」にある。カバー袖に抜粋された新聞評には「家庭での過保護がとかく問題になる折りから、小さな木が両親のもとを離れて自分であるきだし………」と。
「…………」。いや、ここで鼻白んでいてはならない。肝心なのは本文、ひとり歩きをはじめる幼木の成長物語の方だ。
―― 木はあるけないのではなく ためしにあるこうとした木が一本もなかったからです。
ちびっこの木は、「僕は動かない木だ」と考えたのではなく「僕は動いてあの人たちのところへ行きたい」と強く願った。
行きたい、見たい、知りたいという望みによって、木は木でないもの、木を超えたものになった。しかし、このちびっこ木が人語を喋ったとき、お話の活力が一気に萎んだように思えた。
エント族が動き回り、そして話しても、彼らがむかしむかしあるところにいた、と感じ続けることができるのに、なにが違うのだろう。ちびっこ木が鳥たちと話したり、人語を聞き分けることには違和を覚えはしなかったのだが。
館長のコラム「バーナムの森の樹が」より