不思議の国のアリス

ルイス・キャロルとアリス・リデル

Alice's Adventures in Wonderland

ルイス・キャロル 柳瀬尚紀訳 筑摩書房 ちくま文庫

ルイス・キャロルの肖像。右頁は「教師キャロル」、二十三歳でクライストチャーチの講師になった頃

ルイス・キャロルはオックスフォードの数学科で、当時トップ首席だったそうです。そのままクライストチャーチの数学講師になっている。学長のリデル家に三姉妹がいて、ボート遊びをしたときに自分で作った物語を聞かせた。それが『不思議の国のアリス』の元になった話で、主人公にアリスという名前をつけたら、次女のアリスがとても喜んだ。それで手書きの本を送ったと言われています。

出版されたのは1865年、日本の幕末、江戸ぎりぎりの年です。その1865年は、薩摩藩の侍たちがイギリスへ秘密留学をしている年でもある。そこでイギリスと日本の関係ができている年でした。

アリスはウサギの穴に落ちて、クッキーを食べて大きくなったり小さくなったり、首だけ伸びたりと色々な変化を経験するのに、怖がっていない。ここが不思議なところです。後でお姉さんにこの話をしてあげよう、なんて呟く。異界に落とされたという感覚を持っていなくて、ワンダーランドを楽しんでいる設定です。

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』柳瀬尚紀訳 ちくま文庫。付箋が立っている
同・カラー版。J・テニエル画/石川澄子訳 東京図書

キャラクターたちはちっとも優しくない。皮肉っぽかったり意地悪だったりして、アリスはいつも翻弄される立場です。芋虫と話すところが好きで、アリスが小さくなっている時なので芋虫が大きく見える。キノコの上でキセルを吸っている芋虫に「お前は誰だ」と聞かれる。読んでいると、この芋虫と話している時だけ、アリスは語尾に Sir を付けるんですね。

挿絵の魅力がかなり大きい。子どももそうですが、私も挿絵からキャラクターを想像します。ルイス・キャロル自身も絵が描けた人なので、挿絵画家を念入りに人選したと言われています。一番有名なのがテニエルです。キャロル自身のデッサンもかなり達者で、自画像として描いたイラストレーションもあります。

同・トーベ・ヤンソン絵/村山由佳訳
同・対訳版『Alice In Wonderland』

一番有名な挿絵はチェシャ猫でしょう。木の上の猫がアリスに話しかけて、やりとりの途中でニタァと笑った顔だけを残して消えてしまう。挿絵はテニエルだけでなく、ムーミンを描いたトーベ・ヤンソンも描いています。テニエルのアリスに見慣れていると、ヤンソンのアリスはとても寂しげで、同じキャラクターとは思えないくらい打ち沈んだ顔をしている。日本では銅版画家の山本容子さんも作品化していて、チェシャ猫が全然違う感じです。

——「この辺にはどんな人が住んでいるの?」「あっちの方角には」と猫は右の前足をくるっと回した。「帽子屋が住んでる。それからあっちの方角には」ともう一方の前足を回して「三月ウサギが住んでる。どっちか好きな方の家へ行ってみるんだな。どっちも狂っているけれどさ」。「でも狂っている人たちのところは嫌です」とアリスはきっぱり言った。「なあに、そりゃ仕方ないさ。ここじゃみんな狂っているんだ。俺も狂っている、あんたも狂っている」「どうしてわたしが狂っているってわかるの?」「そうに決まってる。でなけりゃここへ来たりはしなかったね」。

POPOL VUH『AGUIRRE』。ラジオ番組 Nuits magnétiques のテーマ曲だと後で分かった一枚
ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』柳瀬尚紀訳/H・ファーニス画 れんが書房新社

木林文庫チャンネル「『不思議の国のアリス』の正体」

トランプの女王が出てきて、赤薔薇と白薔薇の話があるでしょう。一生懸命に白い薔薇を赤く塗っているところ。「ちょっと伺いますが」とアリスはおずおずと言いました。「どうしてこの薔薇にペンキを塗っているんですか」。5と7は黙って2を見ました——この5と7とか2というのはトランプですね。

2は小さな声で話を始めました。「いや実はねお嬢さん、ここへは赤い薔薇を植えるはずだったのに、間違って白薔薇を植えてしまったのです。それが女王に見つかると、私らは打首になるのです。それでお嬢さん、私らは女王がおいでにならないうちに、一生懸命やっているのです」。すぐ首をちょん切るぞと言う女王様ですから。

木林文庫チャンネル「薔薇をめぐる作家と画家」

カフカ『城』の測量士には、そっくりで名前も似た二人の助っ人が出てきます。アルトゥールとイェレミーアス。『不思議の国のアリス』の卵のような二人、トゥイードルディーとトゥイードルダムを思い出させます。

『アリスの絵本 アリスの不思議な世界』高橋康也編/種村季弘図版監修。帯に「絵と文によるアリス狩りのためのワンダーマップ」
アイザ・ボウマン『ルイス・キャロルの想い出』河底尚吾訳 泰流社

木林文庫チャンネル「カフカと夢」

柳瀬さんは詩を訳す時にずいぶん苦労しただろうと思います。イギリスでは子どもたちもよく覚えているような長い詩や歌があって、それをルイス・キャロルは全部言い換えて作り替えている。それをまた訳すという作業ですから。何十行もある。キャロル自身も楽しんで作ったのでしょうが。

ルイス・キャロルは写真にもかなり興味があって、色々撮っています。当時の写真は一枚撮るのに四十秒以上じっとしていなくてはいけないので、小さな子は大変だったと思いますが、アリスは嫌がっていなかったようです。最後に撮ったアリス・リデルは18歳の時だと言われています。

『アリスのティーパーティ』ドーマウス協会/桑原茂夫 河出文庫
高山宏『アリス狩り』

リデル夫妻は上昇志向のある人たちだったらしく、一介の教師などに娘は嫁がせないと考えて、しばらくして交流を止めさせた。手紙のやり取りもあったらしいのですが、その全てを焼却してしまったと言われています。加えて、キャロルの死後に姪が遺品を整理するのですが、日記の三年分が切り取られている。空白の三年間と言われていて、そこで何があったかは分からないままです。

フランスにいた頃、耳慣らしにラジオをよく聴いていました。特に気に入っていたのが Nuits magnétiques——磁力のある夜——という番組で、非常にカルチャー寄りでした。ドストエフスキーゆかりの場所をひたすら歩いて通りを説明したり、トリエステの街を歩いたり、ロブ=グリエのインタビューを流したり。井原西鶴の特集もあって、西方浄土をフランス語で Terre pure と聴いて、綺麗な言葉だなと思ったのを覚えています。

『ユリイカ 詩と批評』特集=ルイス・キャロル(1978年12月号)

その中にアリスの番組がありました。創作ドラマになっていて、モーニングスターという通信社に勤める女性が、歳を取ったアリス・リデルにルイス・キャロルのことを訊きに行くという設定です。時々バックにビートルズのイエスタデイが流れる。記者役とアリス役を同じ人が演じていて、声が入れ替わる。キャロルは吃音があったという伝記的事実があって、急いで喋ろうとすると吃ってしまう設定になっていました。

この番組の冒頭のテーマ曲がとても神秘的で、それを聴くとその世界に入っていく感じでした。かなり後になって、ヘルツォークが南米を主題に撮った『アギーレ/神の怒り』——クラウス・キンスキー主演——のテーマ曲だと分かった。ポポル・ヴーというドイツのグループの、文字通り「アギーレ」という曲です。今でもこれをかけるとタイムスリップします。

木林文庫チャンネル「大人が読むアリス」

この本と結びついている本

幻獣辞典ホルヘ・ルイス・ボルヘス、マルガリータ・ゲレロ

『幻獣辞典』は帯に「ケンタウロスからチェシャ猫まで」とあるとおり、『不思議の国のアリス』のチェシャ猫を架空の動物の一つとして立てている。訳者の柳瀬尚紀はアリスの訳者でもある。

水木しげるの遠野物語水木しげる

狐が人の夢の中に入るという遠野物語の百話目を、館長は「『不思議の国のアリス』の王様の夢みたいで、話としては好み」と評している